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2015
02.11

毎年の「蕗の薹」に思う

Category: フキ
毎年この時期恒例の蕗の薹。
ほろ苦さと一緒に、一番目の春を運んできます。
さっそく,晩ご飯で天ぷらにしました。

友人から株分を頂いてから、もう五年目です。
最初に自分の畑で,蕗の薹を発見した時は感激しましたが、いっぱい増えた蕗の薹はいまや当たり前の存在になりつつあります。
植えっぱなしのものは、苦労がない分有り難さも少なくなっていくのでしょうか。

そう言えば,子どもの頃には山菜も松茸も祖母が山で採ってきていましたが、そんなに美味しいものだとは思っていませんでした。
山に登っていた時にも,山友達がコゴミやたらの芽に目の色を変えていたのを不思議に思ったりもしていました。
しかし,自分の畑で野菜を作り、庭にコゴミやたらの木など植えたりするうちにかなり意識も変わってきました。
四季折々の恵みは,その時期の季節感も一緒に感じながら戴いているということなんだなと思います。
これは,最高に贅沢なことです。

スーパーで季節に関係なく並んでいる野菜には、日々の季節感は感じません。
料理のレシピの材料が全部スーパーで揃うということが,ほんとうに豊かなことなのでしょうか。
食べたいものが,全部お金で揃うということも…。

野菜を収穫し、それで今夜の食事のレシピが決まる。
収穫した野菜は、手間暇掛けて食材になる。
それは野菜を慈しみ毎年繰り返される季節も一緒に味わうことになります。
それこそ豊かな気持ちになれると思うのです。

山に登っていた時には,山で出会う高山植物や風景に季節の美を感じ、自然の雄大さを感じていたのも本当のことです。
母との同居で生活が一変してしまったとき、全ての感性が感じられなくなったようで悲しくなってしまいました。
そんな時,庭作りから始まり、畑に目が向き、自然栽培の野菜作りを始め、また少しずついろんな感性がふつふつと湧いて来るのを実感しました。
山から比べると雄大さはありませんが、私の小さな畑でも自然はいっぱい見つかりました。
それを一つずつ発見していくのも、次から次への山へのチャレンジとそう変わりのないものでした。

山は遠くなりましたが、いつかまた雄大な自然に触れるときが来るなら、それも嬉しいことです。
でも、今出来ることで自分の感性に触れられるのも嬉しいことでもあります。
そんなことは、今まで考えもしないことでした。

「流れに身を委せて在るがまま」
するとまた行くべき方向に道は開かれてゆくものだと、このごろ思うようになりました。

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